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医師会からのお知らせ

第28回健康と医療作文コンクール

優秀賞

「使命」
見沢 富子
埼玉県所沢市
「悪いんだけど、しばらく子どもを預かってもらっていい?」
そう電話口で話すのは娘だ。娘は山梨に嫁ぎ、そこで看護師をしている。突然の申し出に最初は戸惑った。しかし理由を聞けば断るわけにもいかなくなった。
「同僚の妊婦さんがコロナの関係で早めに産休に入ることになって人手が足りなくて」
「えっ。でも子どもは学童で預かってくれるんじゃないの?」
「でも家に帰れば私が移しちゃうかもしれないし、これから病院に寝泊まりすることも増えるから」
もう何も言えなくなった。結局学校再開まで孫を預かることになった。
こうして始まった8歳の孫との自粛生活。夜になると必ず娘から電話がきた。
「どう?大丈夫?」
宿題。体調。食生活。運動不足。母として気がかりなことは多い。
ただ孫を預かる身としても心労は尽きない。テレビばかり見せるわけにもいかず、宿題を見たらまずは公園。人が増えてくれば別の公園に場所を移し、結局散歩だけで終わることもあった。自宅に戻れば今度は食事の支度。孫が食べられそうな献立を考えるのも一苦労だった。
「いつまでこんな状態が続くのかしら」
たまらず弱音を吐くと隣で主人が「仕方ないだろ」と言った。
そんな時、テレビで「看護師3名、コロナウイルス感染」のニュースが飛び込む。とても他人事とは思えなかった。喘息のある娘の場合、感染すれば重症化の可能性もありうる。脳裏をよぎる、死。私はたまらず娘に言った。
「ねえ!あなたがかかったら大変よ!喘息のことを言って病棟を変えてもらいなさい!」
だけど娘は言い返した。
「そんなこと言ってられないの!」
あまりの勢いで何も言い返せなかった。電話を切られたあと一人で考えた。私は間違っていたのだろうか。親としてできること。してはならないこと。それは何だろう。
しかし、相変わらず孫との自粛生活は続いた。健康を維持するためには適度に身体を動かすことも必要。押し入れから古いローラースケートを引っ張り出し、歩きながら人気のない原っぱを目指した。人との接触を避け、人が密集する場所を避ける。それは自分も相手も守るため。しかし、医療現場で働く方々はそうもいかない。自分が感染するリスクを負いながら昼夜問わずウイルスと、患者と、向き合う。そのプレッシャーは計り知れなかった。
その後、都内の感染者はゆるやかに減少し始めた。やっと自粛生活の効果が表れたように思えた矢先、夜中に電話が鳴った。娘だ。
「お母さん。私、かかったかも」
電話の声は震えていた。恐れていた事態が起きてしまった。そう思った。娘はそのまま泣き続けた。だけど私は知っていた。感染したから泣いているんじゃない。悔しくて泣いているんだって。本当はもっと患者を支えたかっただろう。それなのに。やるせなくて、切なくて、娘の立場を思うと言葉がなかった。
「がんばろう」なんて易易とは言えないが、せめて「一緒に」をつける気持ちだけは持ち合わせたいと思った。
まもなく緊急事態宣言は解除され、世の中は少しずつ動き始めた。孫は学校が始まり、娘も陰性と診断され、また現場に戻った。感染者がピークの時に比べると心身がかなり軽くなった。だけどこんな日常があるのも自粛生活のおかげだけではない。コロナウイルスと間近で闘ってきた人たちの存在を忘れてはならない。息苦しさを伴うN95マスク。暑さで体力を奪われる防護服。頭痛薬を飲みながら診察にあたる医師がいた。抗鬱薬を飲みながら現場で働き続けるナースもいた。国がソーシャルディスタンスを呼びかける中で「3密」の世界に飛び込んでいく勇気。それは到底真似できることではない。今では車中泊をしても、感染者が増えても、現場を離れなかった娘を誇りに思う。心配するばかりが親じゃない。応援してやるのが親なんだ。
だからもう小言は言わない。不安を煽ったりしない。マスクと、手洗いと、感謝の気持ちを忘れずに今日を生きる。それが医療現場で働く娘を持つ私の使命だと思うから。