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医師会からのお知らせ

第28回健康と医療作文コンクール

山梨日日新聞社賞

「今を生きる」
宮沢 梨那
駿台甲府高校1年
今、あなたはこの瞬間を生きている。「生きる」とはそのようなことだろう。
医師が指差すレントゲン写真は、人間のものとは思えないほど、大きく曲がりくねった、私の背骨を映した。医師に告げられた病名は「特発性側弯症」。学校も休まず、元気に生活していた私がどうして。小学6年生の私は、この病気の重さを理解していなかった。
すぐに苦しい治療が始まった。まず私を苦しめたのは、背骨を矯正するためのコルセット生活だった。一人では装着できないほど大きく、固く、ロボットのようなコルセットは、私の心も締め付けた。トイレに行く度に養護の先生に取り着けてもらい、保健室に通う日々。コルセットのせいで体育座りさえもできない私は、常にパイプ椅子。だんだん友達と同じ学校生活を送れなくなった。そんな不自由な生活を強いられながらも、何とか回復を期待し、迎えた中学1年生の冬の検査。私を待ち受けていたのは、最悪の結果だった。
「手術」検査の結果、私は中学2年生の夏、手術を受けることになった。「自分の背中に、メスを入れる」一人布団の中、そんな恐怖と悔しさで毎晩泣き続けた。手術の向け、様々な検査が始まった。中でも自己採血は辛かった。自分の腕から大量に血が抜けていく。大きな針を何度も刺し、両腕は傷だらけだった。
手術の前日、私は入院した。その日の夜、友達と見るはずだった花火が、病室を照らした。「どうして病気は私を選んだの。」そんなことを思うと、悲しくなってきた。「病気のことで家族の前では泣かない」と決心していた私は、必死に涙をこらえ、花火を見ていた。そんな私の背中を、両親が悲しそうに見ているのが伝わった。
そして迎えた手術。「あと30秒で意識がなくなるよ。」という言葉に、私は看護師の手を握りしめた。こらえていたはずの涙が、こぼれた瞬間から、5時間以上もの時間が経ち、私は目を覚ました。酸素マスクに、体は沢山の管でつながれ、想像を絶する痛みとの闘いが始まった。寝返りも打てない。何も出来ない。術後の一週間は、生きている実感がなかった。
しかし、リハビリを通して少しずつ、私の体は回復していった。そこで私は、様々な光景を目にした。リハビリ室で、必死に頑張っている人。不安そうな顔で、受診に訪れる人。肩を寄せ合い、涙を流している家族。救急車のサイレンは、一日中鳴り響いた。そんな一人ひとりに、それぞれの日常があって、それぞれの未来がある。限られた一生の中で、今は辛くても、同じ場所でこの瞬間を共に生きている。そしてそこには、患者さん一人ひとりに寄り添う姿があった。
私と向き合い、背中を治してくれた医師。術後、自分の力では何も出来ない私を支えてくれた看護師。夢と希望を与えてくれたリハビリの先生。私も様々な医療の力に救われた。
私は今、手術から2年後の夏を迎える。今も、私の背中には大きな傷跡が残っている。そしてその傷は、私に語りかけてくれる。今あるこの日常が、尊く、かけがえのないものであること。沢山の人のおかげで、今、私は生きているということ。そして、今この瞬間も、病気と闘う人達がいるということ。
痛い。辛い。怖い。苦しい。でも、きっと背中の痛みなんか、誰も分かってくれない。術後、どんなに痛くても、傷口がどんなに痛々しくても、背中は服で隠れ、周囲の人から、病気の事に気付かれない。姿勢を正すことを自分では意識していても、姿勢を正すよう注意される日常。仲間が楽しそうに走っている姿を、眺めているだけの日常。病気のせいで自分の力ではできないことが増え、沢山の人に、迷惑をかける日々。「特発性側弯症」という病気が、知られていない分、友人関係で悩むことも多かった。中学生であったあの瞬間を、あの時しかなかった、あの瞬間を、思いっきり走りたかった。学園祭や強歩大会、部活動、存分に楽しみ、動きたかった。今も時々、そんな思いが頭をよぎる。しかしこの瞬間も、必死に病気と闘いながら、今を生きる人がいる。入院中、私が見たあの光景は、病院でのあたりまえ。だからこそ多くの人に考えてほしい。病気を患っている人の気持ちを。そして向き合ってほしい。まずはあなた自身の健康と。どうか多くの人に届いてほしい。生きることの尊さと難しさ。
今の私には歩いて、食べて、笑うことができる日常があり、医師や看護師、そしてリハビリの先生が与えてくれた希望溢れる未来がある。この感謝の気持ちは忘れない。
この背中には、一人で泣いた日々も、あの時の苦しみや、痛みも刻まれている。しかし、この傷跡は、多くの優しさに支えられた証。
私は、この背中と共に、今を生きている。