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医師会からのお知らせ

第26回健康と医療作文コンクール

山梨日日新聞社賞

「アネゴ」
小松崎 有美
埼玉県所沢市
ひとりの母親が死を選ぼうとしていた。それは2年前のこと。はじめての出産から5日。母子とともに無事に退院を果たした。新しい命に出会い、新たに家族が増えた喜びでいっぱいだった。久しぶりに帰った我が家。食卓に小さな椅子が一つ増えていた。靴箱にはベビーシューズ。洗面台にはたった10センチの歯ブラシ。まだ一歩も歩けないし、歯だって一本も生えていないのに。それらはすべて期待と喜びの表れだった。しかし、そんな喜びが2週間もしないうちに苦しみに似た感情へと変わっていった。
はじめての育児はわからないことだらけだった。それを補うかのように世の中にあふれる育児書の数々。インターネットもクリック1つで百あまたの情報を手に入れることができる。しかし、その手軽さと情報の多さが逆に混乱を招いた。最初に困ったのは息子が泣き止まなかったときだ。息子は小さめに生まれた。それなのに泣き声と言ったら三人分くらいありそうだった。そして、昼夜問わずとにかく泣いた。その理由を探ろうとネットを開く。しかし、どの情報を信じていいのか全くわからない。泣き声が大きくなるほどこちらも焦った。寝たと思えばすぐ起きる。家のこともできなければ買い物にも行けない。何より話し相手のいない世界は、心をより閉塞感でいっぱいにした。ちょうどその日は土曜日だった。やはりいつものように息子は泣いている。気づけば自分も身体中に蕁麻疹ができていた。まずい。しかし、医者はどこも休みである。産院でもらったパンフレットに育児の相談ダイヤルが載っていた。しかし、土日祝日はやっていなかった。母親業には土日も祝日もないのに。そんなときネットで山梨にある「産前産後24時間ダイヤル」を見つけた。藁をもすがる思いで電話をかけた。すると電話の向こうから明るいどっしりとした声が聞こえた。これが「アネゴ」との出会いであった。この女性は私の子どもの悩みを聞いて、すぐに答えをくれた。くよくよする私に背中をさするような言葉と時には背中をドンと押すような言葉をかけてくれた。その力強さから私は彼女を心の中で「アネゴ」と呼んだ。それからアネゴのおかげで、乳腺炎や腱鞘炎のトラブルも乗り越えられた。おむつかぶれや便秘の悩みを解消した。
産後1ヶ月が過ぎた頃だったか。相変わらず息子は泣いてばかりであった。抱くと泣き止むが抱いていないと泣くのだ。だから何もできなかった。子どもが泣くたび、自分がダメな親だと責められているように感じた。その状態が続くと今度はそのイライラが主人にまで及んだ。ストレスがピークに達し、あるとき私は夫の首に手をかけた。自分でもそれがショックだった。その晩もう自分がいなくなった方が幸せだと思った。夫にとっても、子どもにとっても。死にたい。死のう。でも。そこで私はたまらずアネゴに電話をした。深夜2時だった。でも言葉が出なかった。「もしもし、もしもし」と電話の向こうでアネゴの声がする。答えるように私はすすり泣いた。すると向こうから「埼玉の方ですか」と言ってくれた。私を心配してくれる場所があった、そう感じた。アネゴは私が落ち着くまでずっと話を聞いてくれた。そして論すように病院をすすめてくれた。母親が笑顔でいられることが一番だと言って。病院を受診すると産後うつだと言われ、逆にすっきりした。受診が遅れていたら今の私はなかったかもしれない。夫にも子どもにも愛情を注げる私はきっといなかった。そう思う。何より私の心に響いたのはあの日のアネゴのひとことだった。お母さんが元気、それが一番よと言ったあとだった。わたしに「お母さん、おふくろから、くを取ってみてください」と言った。え?一瞬首をかしげた。「おふろですか」「そうよ。おふろ。おふくろから苦をとってくれるのがお風呂。良かったらご主人とお子さんと石和に来てください。あったかい足湯もありますから」と言った。この言葉がそのときはお風呂より温かかった。久しぶりに思わずクスッと笑った。さっきまで尖っていた心がまあるくなった瞬間だった。死にたいという気持ちは生きたいに変わった。だから、迷わず病院を受診しようと思えた。
こうして何度も何度もアネゴに救ってもらった。つらい、もういやだ、どうしよう、死にたい。そんな気持ちにいつも寄り添ってくれた。そしてアネゴに出会い、私は気づかされた。私の死にたいという気持ちは実は「生きたい」という心だと。
いまこの場をかりてアネゴにお礼を言いたい。助産師さん、あのときはお世話になりました。おかげさまであのときの泣き虫の息子は2歳になりました。いつか三人でケアセンターに行きたいです。あなたに会いに。追伸、今度お名前を教えてくださいね、と。