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医師会からのお知らせ

第25回健康と医療作文コンクール

山梨放送賞

「医療のおかげ・いろいろな人のおかげで生きている-透析30年を迎えた夫とともに-」
河野 由乃
南アルプス市
現在64歳の夫はこの春透析30年を迎えた。もともと風邪ひきやすい体質で腎炎の治療を続けていたが、病気は進行し34歳の時に透析生活に入った。息子が3歳の時だった。教員として学校と生徒が大好きで突っ走っていた時期であった。それからの年月は、仕事と透析、アクシデントや入院などの繰り返しであり、多くの医療関係者のお世話になってきており感謝してもしきれない思いがある。そんな感謝を胸に家族そして妻としての思いを振り返ってみたい。
当時、透析に入った時は、仕事を続けるためにCAPDという自宅でも可能な腹膜透析を選択して行ってきた。自宅でも清潔な環境で手技ができるようにと小さな部屋を整えたり、職場でも保健室の一角をお借りして実施してきたが、たびたび、腹膜炎などの感染症に見舞われて入退院の繰り返しであった。そして、夫の透析は、CAPDから血液透析に変更となった。仕事を続けるために夜間透析を選び、仕事が終わってから、病院で週3回の夜間透析を休みなく受けて命がつながってきた。私は仕事もあり子どもも小さかったので本当に大変で、入院の荷物を常に準備していたし、また、夫の職場や行政機関への手続きに何度も伺ったものだ。夢中でやってきてあまり覚えていないが、とにかく忙しく走っていた。姑は、「息子に先に行かれては困る、無理はさせられない」と、農地は近所の人に借りていただいた。夫は、外では頑張って仕事して家ではゴロゴロしていた。子どもたちは家でのゴロゴロしか見ていないので、「お父さんはいつも疲れている、いつもゴロゴロしている」として、遊んでもらった経験があまりなかった。そのような中ではあったが、子どもたちは成人し、娘は県外へ嫁ぎ孫も生まれた。孫が生まれた時、夫は「まさか孫を抱くことができるとは思わなかった、ここまで生きれるとは思わなかった」と言葉にしたが、私もそう思っている。そして、定年退職までたどり着いたことに感慨深く、支えていただいたいろいろな人に心から感謝したい。定年後の今では、透析は夜間から昼間へと移行し、身体も休める時間が確保できるようになった。透析クリニックの主治医は何でも相談していいからとおっしゃってくださり、高い技術の上に、患者思いでやさしく常に私たち夫婦は大きな信頼を寄せている。
また、今年に入って、6か月の間に4回の手術を受けることになり大きな病院へ入院した。一つ目の手術は化膿していた足の病巣を切除、病巣が広がっていたため思っていたより広い部分を切除、そして、3週間後、切除した部位に太ももから剥がしてきた皮膚を移植するという手術だった。入院中、様々なアクシデントがあり、ナースやドクターたちに人一倍厄介になったと思う。この紙面でも言いたい。「本当にお騒がせしました」と。50日を経て帰宅した夫は、歩行器で歩くのがやっとの状態で寝たり起きたり、体重減少や栄養失調も重なっていた。そのような状態から数か月経って少しずつ改善した頃には、3つめと4つめの手術だった。再び、大きな病院への入院であったが、体力がないままで本当に大変だった。私は、生きて帰れるかといつも思っていたが後で聞くと夫もそう思っていたらしい。私たちは、信頼しているドクターの「大丈夫ですよ」の言葉に強い気持ちになったようなものだった。日夜働いているナースたちは、私たちの話をよく聞いてくださって、包み込むような対応をしてくださったり、適切な処置をしてくださったり、ドクターに連絡していただいたりまた必要な情報を提供してくださったり、とてもありがたかった。今でもこのすばらしい出会いを思うと心温まってくる。歩けなかった夫は、散歩やリハビリを心がけ今では車の運転もできるまでになっている。体調をみながら、生きがいである高校演劇や地域の子供たちへの勉強会に取り組んでいる。入院した大きな病院でも長く通っている透析クリニックでも、「困ったことはいつでも言ってください。何でも言ってください」とやさしく言っていただいている。なにげない言葉のようだが、私たちは長い透析生活を通して、拠りどころのひとことと実感している。
今後に向けて考えることは、夫らしい最後を迎えることができるだろうかと透析患者にありがちな急変時のことを心配している。そして、長い間、医療にお世話になってきた夫は、この肉体を少しでも医療の役に立ててほしいと手続きを済ませた。