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医師会からのお知らせ

第24回ふれあい医療作文コンクール

佳作

「祖母との思い出」
鶴田 里佳
甲斐市
小学生の息子たちに「音読」の宿題が出されるたびに、私は祖母のことを思い出します。
4年前に88歳で亡くなった祖母は全盲でした。38歳で光を失い、50年間視力が回復する事はなく、10人の孫と9人のひ孫に看取られ、亡くなりました。
祖母が視力を失った原因は糖尿病です。当時は祖父が料理の仕出しの商売をしていて、家族みんなで忙しく働いていたそうです。目がかすみ、視力が低下し、初めて眼科にかかったそうです。その時は糖尿病という事に気づくことができずに、長い間近所の小さな眼科へ通院していました。視力はどんどん低下し、ほとんど見えなくなってしまってから総合病院でみてもらったそうですが、その時にはすでに手の施しようがなく、余命あとわずかとまで言われたと聞きました。
私は生まれてから結婚するまでの約30年間、祖母と一緒に暮らしました。祖母の生活は規則正しく、毎朝4時に起床し家族の朝食の支度、6時半にラジオ体操、三度の食事は決まった時間に摂り量はいつも腹八分目、朝夕1回ずつのインスリン注射、夜は9時前に床に入る、という生活を40年間続けました。毎朝仏壇に向かい「死ぬ時はポックリ」と祈っていましたが、脳梗塞で倒れ、残念ながら最後の5年間は胃ろうでの延命になってしまいました。50年前に余命あとわずかと宣告された病人とはとても思えないほど、毎日気丈に明るく生活をしていました。
祖母は失明してから毎月2回、総合病院へ通っていましたが、先生方や看護師さんに会えるのをとても楽しみにしていました。主治医の先生は温かく、優しく、祖母は世間話をたっぷりして、インスリンと内服薬を山ほどいただいて帰ってきます。家の居間には「おばあちゃんの薬袋」という大きな布袋があって、机の脚に縛り付けられていました。先生のご指導通りの食事と規則正しい生活、祖母の明るい性格が寿命を延ばし、私たち家族を支えてくれていたのだと思います。
私が小学校の頃、学校から帰ると祖母は毎日「今日は学校で何の勉強をしてきたで?国語の本を読んで聞かせて。」と言うので、「面倒だな」と思う事は何度もありましたが、毎日毎日言うので、学校から帰ってくると音読が習慣になりました。わからない漢字が登場すると指で祖母の掌に文字を書くと教えてくれました。針に糸を通したものを何本も用意しておくと、何日もかかりますが、雑巾を縫ってくれました。「私が出来ないのは焼き魚と天ぷらだけ。」と言って毎日料理もしてくれました。時間がかかり、同じ事の繰り返しの毎日でしたが、祖母との生活が当たり前で、私たち家族は目が見えない事の不自由さを、ほとんど感じた事はありませんでした。
今では私にも3人の息子ができました。慌ただしい毎日を過ごしていますが、夕方の忙しい時間に息子たちから「宿題みて」「音読聞いて」と言われても落ちついて、みてあげることができていません。今の私の毎日から比べると祖母と過ごした時間は穏やかでとても貴重な時だったのだと、感謝の気持ちでいっぱいです。祖母は「為せば成る」と「継続は力なり」という言葉をいつも口にしていました。祖母の人生そのものを表す言葉だと、今実感しています。
山梨を代表する大村智先生のような、偉大な研究者の方々のおかげで、医療や薬は進歩し続けています。今ならきっと糖尿病を患って失明する人は多くはいないでしょう。早期発見、早期治療でほとんどの病が重症化する前に防げるようになりました。その中で、もし、祖母のように病気が完治する事なく、その病と一生つき合って生きていかなければならないとしても、希望をもって生きる事で、生活はずっと豊かなものになると思います。病を受けとめ主治医を信じ、指導を忠実に実践する事で、守られる命はたくさんあります。
祖母の愛言葉「為せば成る」「継続は力なり」を息子たちへ伝えていきたいと思っています。