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医師会からのお知らせ

第24回ふれあい医療作文コンクール

山梨日日新聞社賞

「母の日記から」
川口 碧
山梨英和高校2年
「碧さんってどうしてそんなに元気なの?」
「いつも楽しそうでうらやましい」
私は周りの人からよくこう言われる。褒められているのか、能天気だとけなされているかはよくわからないが、確かに私は健康そのものだ。学校もほとんど休まないし、部活動も毎日頑張っている。でも、幼い頃の私は、今の元気な姿からは想像も出来ない難しい病と闘っていた。当時3歳、幼すぎて記憶がほとんどないため、母の日記を参考にしながら書き進めていきたいと思う。
16年前、3人姉妹の長女として生まれた私は、風邪をひくと咳や痰が止まらず、喘息と診断されていた。まだ20代だった両親にとって、初めての子育ては苦労の連続だった。
そして3歳の時、大変な事態が起こった。肺炎のために入院していた私は、ベッドの上で突然意識を失ってしまったのだ。さらに大きな病院へ救急搬送され、精密検査が行われた。その時、初めて本当の病名が分かった。
先天性気管狭窄症、これは生まれつき気管が細い病気で、医学が進歩した現在でも治すことが難しい病気の一つに挙げられている。当時、10万人に1人という珍しい病気だった。
正常な3歳児の気管は直径1cmほどだが、私は1.5mm、シャーペンの芯3本分と同じくらいの細さだった。全く生きているのが不思議なくらいの状態であったという。
治す方法は手術しかないと言われたが、症例が少ないため手術をしてくれる病院は簡単には見つからなかった。小児外科の権威と呼ばれている先生方にも手術は不可能と断られ、入退院を繰り返す生活が長く続いた。
「このまま手術してくれる先生が見つからなかったら、この子はどうなってしまうのか」「私たちはもう見捨てられてしまったのか」母の日記には苦悩と不安がびっしりと綴られている。
しかし、絶望のどん底にいた両親に、ある日一筋の光が射した。この病気の症例数が一番多い、家から遠く離れた病院が受け入れてくれることになったのだ。父は仕事を長期に休業し、母も1歳になったばかりの妹を連れ、私に付き添ってくれた。その病院で出会ったのがT先生だ。
検査結果を見て、T先生は両親に告げた。この病状では、この子は冬を越せない。今すぐにでも手術が必要だが、非常に難易度が高いから最悪の場合も覚悟してほしい、と。
想像以上に厳しい宣告だった。衝撃を受けた両親は、「最悪の場合」が脳裏に浮かび、すぐには手術に踏み切れず、思い悩む日が続いた。しかし、先生は両親の気持ちをじっくりと聞き、こう言って下さった。
「辛い決断になると思いますが、この子を助けるためには手術しかありません。私たちも全力を尽くします。一緒に頑張りましょう」
先生の言葉は率直で、真心にあふれていた。どこの病院でも治療は不可能と言われ、悩み抜いてきた両親はその言葉にとても救われたという。厳しくも優しい先生の言葉が、両親に勇気を与えてくれた。
「手術を決断するのがすごく怖くてね。あんなに悩んだことはなかった。でも、先生なら任せられるって確信したの。」
以前、母は私にそう話してくれた。
手術は7時間に及び、術後は少しでも動くと縫った傷が破れてしまうので、10日間ずっと麻酔を打たれ、昏々と眠っていた。そのため、意識が戻った時には目の焦点が合わず、両親の顔も分からず、話しかけても反応の無い状態だったらしい。先生からは脳に重い障害が残ってしまう可能性があると言われ、両親は心配でたまらなかった。でも、1週間ほど経つと、顔に表情が戻り、少しずつ回復していった。
手術から1ヶ月、ようやく退院の日が決まった。その喜びを母は日記に綴っている。
「娘たちが大きくなったら使えるように、おじいちゃんが買ってくれた二段ベット。あの可愛いベッドで碧が眠る日は来ないのかもしれない。そう思う度に胸が締め付けられた。でも、また甲府の家でみんな一緒に暮らせるんだね」
改めて考えると、両親は導かれるようにT先生のいる病院へ行ったように思う。今、私が元気に過ごせるのはT先生と出会えたからだ。両親を励まし、最善を尽くして下さった先生にはどんなに感謝してもしきれない。
今回、母に日記を見せてもらい、両親がいかに私を愛してくれたのかを実感した。両親をかげで支え、妹の世話をしてくれた祖父母にも、深い感謝の気持ちがわいてくる。
私は1人で大きくなったのではない。私の小さな命を守るために、様々な人たちが全力を尽くしてくれた日々があったことを忘れてはならない。改めて強くそう感じる。
自分が生かされている意味を考えながら、「明日」が来るのを当たり前と思わず、感謝して日々を過ごしていきたい。