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医師会からのお知らせ

第24回ふれあい医療作文コンクール

佳作

「母から教わったこと」
長田 麻奈美
甲府城西高校3年
私には今、
「ただいま。」と言うと
「お帰り。」と応えてくれる家族がいる。私には、ユニークでちょっと子供っぽい父といつも笑顔で優しい母、家族一うるさい弟2人の5人家族だ。単なる自己紹介に聞こえるかもしれない。しかし、家族全員を紹介出来ることがこんなにも幸せだということを私達は忘れている。いや、忘れているのではなく、気づいていないのかもしれない。私はこの当たり前のことが「幸せ」だと言うことを母から学んだ。
母は看護師として働いている。夜勤があるうえに、患者さんが急変すると休日の日でも仕事に行かなければならない。さらに、家事や私たちの子育てなど母は1年中休みがない。家族で一番忙しいのが母だ。けれど母の顔にはいつも笑顔がある。その母の笑顔に私たちは何度も救われてきた。けれど私たちは、母を支えることが出来ているだろうか。
6年前の夏、静岡の海に1泊2日の家族旅行に出掛けた。だがその日、母は朝から頭が痛いと言っていた。母はもともと頭痛持ちであったがこの日だけはいつもと様子が違う。痛みはひどくなる一方で、何度も嘔吐し、動くのでさえ困難になっていた。旅行は中止し、山梨の大学病院へ至急向かった。この時、運転していた父の青ざめた顔を、今でもはっきり覚えている。そんな苦しむ両親を目の前に私は何も出来ず、ただ見ていることしか出来なかった。母は大学病院で至急入院することになり検査した。
検査の結果、担当の医師から言われた病名は、「脳動静脈奇形」というものだった。その当時私にはどんな病気なのかさっぱり分からなかった。しかし、それが命にかかわる重い病気だということだけは両親の涙から理解することが出来た。治療は手術で行い見事に成功して母の顔にはまたいつもの笑顔が戻るまでに治った。
治療をしてから3年後、検査のために行った病院で母の病気が再発していることが分かった。なぜ母なのだろう。もう治らないのか。高校受験を前にした私も自分のことよりも母のことが気になった。そんな中、医師から言われた言葉は、「もう完治することはない。10年後には脳内で爆発してしまうことを承知しておいてください。」と。驚いた。なぜ治らないのか。悲しくなぜか悔しくも感じた。隣では、祖母が声をころして泣いていた。けれど母は泣いていなかった。私たちに泣いている顔を見せないように我慢しているのか。それとも看護師だから自分の症状が分かっていたのだろうか。いろいろなことを考えた。その途端「なぜお医者さんは母を治してくれなかったのか。違う病院なら治してくれたかもしれない。」そんなことを思った。「違う病院だったらお母さんの病気治ったかもしれなかったね。」そう母に言い、とても怒られたことを今でもはっきり覚えている。
再発していると分かった日からもう3年過ぎた今、相変わらず母の顔には明るい笑顔がある。母がこうして病気が治っていなくても笑顔でいれるのは「病院の医師や看護師の方のおかげだ」と母はよく言う。今、3年前のことを振り返ってみると、母の病気に向き合い何度も手術をしてくれた医師と、母の気持ちに寄り添ってくれた看護師の方がいた。私たちがお見舞いに行くと母はよく看護師の方と笑顔で話していたことを思い出した。毎日毎日母の体調管理をしてくれていたことを思い出した。私たちが出来ないサポートをし、精神的にも治療をしてくれていた。
病気は今もまだ治ってはいない。けれど母の病と向きあい治療し、母の笑顔を取り戻してくれたお医者さんや看護師さんにとても感謝している。
母を支えてくれた看護師。多くの患者さんを自分のことのように親身になって考えてくれる看護師。私は将来そんな看護師さんのような看護師になりたい。笑顔・思いやり・温かさを大切に、患者さんに寄り添う看護師になることが今の私の夢だ。
今も、そしてこれからも母を治療してくれた医師や看護師さんが私のあこがれだ。