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医師会からのお知らせ

第23回ふれあい医療作文コンクール

山梨日日新聞社賞
「私の心の宝物」
守屋 侑実
北西中学校1年
健康診断などの問診票で、いつも「はい」に丸をつける場所がある。それは、「川崎病にかかったことがある」という項目だ。最近、「川崎病」を辞書で調べたら、「4歳から5歳以下の乳幼児が主にかかる原因不明の病気。合併症のため急死することがある。」と書かれていた。「死」の文字に背中がぞくっとした。
私が川崎病にかかったのは、5歳の頃。家族で京都に旅行中だった。朝から少し痛かった首が、時間が経つにつれ激痛に変わり、帰りに向かう頃には口も開けられない程になっていた。熱も上がり、車が揺れる度に痛くて、ずっと祖父のひざで泣いていたのを今でもはっきりと覚えている。旅行から帰ったその足で、母がかかりつけの小児科に私を連れて行ってくれた。私が痛がった場所が、兄が以前かかったおたふくかぜの時に腫れた場所と似ていたので、父も母もおたふくかぜだろうと思っていたそうだ。ところが、診察室に入りいつもどおり、にこやかに診察をはじめた先生が、私の耳の後ろを触った瞬間だった。
「これ、おたふくじゃないよ。」
先生の顔が一瞬にして、険しい顔になった。あっという間に私は川崎病と診断され、約1か月間の入院生活をおくる事となった。後に、この時の先生の早い診断が、早期の治療を必要とする川崎病にとって大切なものであったと知った。
入院生活は、私の生活だけでなく、家族の生活も変えた。母がずっと私に付き添ってくれていたので、家の事は父が引き受け、小学生だった兄にとっても不自由な事がたくさんあったそうだ。そして、入院してからしばらくして、少し元気になってきた私は、相当のわがままを言ったそうだ。しかし、そのわがままを全てきいてくれたくらい、家族はみんな私の事をとても心配していたのだと言う。
私が入院生活で一番嫌だったのは、腕に針を刺す、点滴や採血だ。川崎病は、ガンマブログリンという血液製剤を24時間点滴することにより、心臓に静脈瘤をつくらないようにする治療を行う。ぽつんぽつんと、規則正しく落ちている点滴をじっと眺めながら、私はずっと母の手を握っていた。今思えばたった24時間だけれど、その時の私にはとてつもなく長く感じられ、恐怖や不安でいっぱいだった。点滴が終わると、次の日からは、ひんぱんに採血があった。
診察や採血に来てくれる先生は、3人いたのだが、私にはお気に入りの先生がいた。とても穏やかな口調で、採血しながらたくさんお話してくれる、父よりも少し年上に見える男の先生だ。その先生とお話している時は、採血もあっという間に感じられ、不思議と痛くなかった。どこかその先生の温かさを感じて恐怖心がなくなったからかもしれない。こうして、私の入院生活は、幸い合併症もなく無事に終える事ができた。
今年、中学校に入学して、心電図検査を受けた。問診票のいつもの項目に、「はい」とつけた事により、学校から「受診して下さい。」という通知が来た。なかなか時間もとれず、少し面倒だと思ったが、診察してもらい、久しぶりにエコー検査を受けた。診察後、
「異常ないですよ。激しい運動もやって大丈夫です。」
と言われた時、自分が健康であることにホッとした。
入院中たくさんのわがままを聞き、心から心配してくれた家族、早期に診断して下さったかかりつけの先生、そしていつも優しく話しかけながら治りょうして下さった病院の先生。今の私が健康でいられるのが、様々な人の支えによるものだということを改めて思う。入院生活は決して楽しいものではなかった。しかしその中で私が得たものは健康でいられる事があたり前の事ではないという実感だ。もしかしたら死んでいたかもしれない。または、後遺症が残っていたかもしれない。元気に学校へ通い、大好きな剣道を続けていられる事、そして家族や友達と毎日楽しく生活できる事に感謝できる。こんな風に心から思える事は、私の心の宝物だ。
私は、これからどんな職業につくか、まだ考えている途中だ。でも心に決めている事がある。それは、命の大切さや、健康でいられるのがあたり前ではないという事を、伝えられるような人になるという事。そして今度は、私がたくさんの人々の支えになりたい。