HOME > 医師会からのお知らせ > ふれあい医療体験記 > 第23回ふれあい医療作文コンクール > 佳作
医師会からのお知らせ

第23回ふれあい医療作文コンクール

佳作
「「チームゆき子」に感謝をこめて」
長谷部 美佐子
甲府市
「最近耳の聞こえが悪いんじゃないの?補聴器をした方がいいかもね。」と言う娘の私の言葉に耳鼻科へ通っていた母だった。そして、その日は突然やってきた。平成25年11月9日の朝、出かけようとしていた時に脳梗塞で倒れたのだった。
救急車で専門の病院へ。そして治療をしてくださった先生の「後は本人の生命力です。」との言葉に、その日の午後も3日経っても1週間経っても死への不安はつきまとっていた。夜中にオレンジ色に光りながらピンピンと警告音がなるとすぐナースコールを押して来てもらった。そのたびに看護師さんが「大丈夫ですよ。」といいながら看ている私たちを安心させてくれた。
そして、少しずつ危機を乗り越えながら母は次のステージに進むことができてきた。点滴での栄養摂取から胃へ直接流しながらの栄養になり、「そろそろ、ヨーグルトから食べてみましょうか」と、先生が話してくださったときは、信じられなかった。本当に食べられるのだろうか。しかし、これで少し安心し前に進めたと思った。少しずつ少しずつ母の様子にも変化が見られ、部屋もナースセンターから離れた2人部屋になった。ある時看護師さんが、「今日は気持ちがいいから外に出てみましょうか。」と声を掛けてくださった。車いすに乗った母をロビーの外まで連れて行ってくれた。家族だといつまでたっても恐くてできなかったことなのに、その時の母の表情は忘れられない。1つの記念日になった。急性期を乗り越えた母はリハビリのために転院することになった。
転院した日に咳をして脈拍も早くなり、先生方を心配させた。リハビリどころではなく、検査をし、やはり重い麻痺であることに違いなく、回復もなかなか難しいとのことだった。心臓にも負担がかかっているとのこと。何を聞いてもあまり喜べる状態ではないことを再認識せざるを得なかった。どこかで母との別れを意識しながらも笑顔でいようと決め、毎日通うことにした。母には、3人のリハビリの先生が毎日かかわってくれるようになっていて言語療法、理学療法、作業療法と計画に沿ったリハビリを毎日行っていった。ベッドまで迎えに来てくれ顔を見ただけで母は嬉しそうな表情になり、その日の体調によっても内容を変えてくださったり、時にはベッドの上で行ってくださったりした。若い先生方の笑顔をやさしく母のことを思っての声かけで母の持ち前のやる気スイッチが入っていったようだった。声を出せるようになってきたこと言葉の意味もわかるようになってきたことなど、自分でも自覚できていることが生活の張りになっていったのかもしれない。食事についても麻痺側に食べ物がたまってしまう様子を見守り、どのようにしていけばいいのかを考えて家族にも教えてくださったりした。今まで、人のお世話をするのが大好きで何事にも積極的に取り組む母、事故で骨折した後もゲートボールを始め80歳を過ぎてから審判の資格を取っていた。脳梗塞で右半身が麻痺になり、すっかり萎えてしまった心だが、何かあると、おでこをくっつけるようにして話をし、聞いてくれるお医者様と看護師さん達の明るく元気にお世話をしてくださる毎日、病院のどこにいても肩を撫で手をにぎり声をかけてくれる療法士の先生方や、いろいろな職種の方々のおかげで少しずつ前を向き表情が豊かになってきた母だった。
そして次の段階の療養病棟に入り、しばらくして退院し家に帰ってくることができた。ケアマネージャーさんを中心に家の中に手すりをつけたり、ベッドを置いたり、玄関にあるスロープを借りたり、準備も退院前から病院の看護師さんや療法士さん、通うことになるデイサービスの職員の方達に見ていただきながら進めてきていた。家では、兄夫婦がなるべく過ごしやすいようにいろいろと心をかけてくれている。2年間の生活を思い返すとその時その時に母にとって必要な人達が協力し、つながりながら母の命を支えてくれていることを実感している。何十人と数え切れない人達がいなければ母の命は救えなかっただろうと思う。私は、感謝をこめて「チームゆき子」と心の中で呼んでいる。
そして、きっと今、あらゆるところで一人のためにいろいろな立場の人達がチームを組んでその一人を支えるために力を尽くしてくれているのだろうと思う。「チームゆき子」のように。
最後に、2年間というもの動かなかった右足の指と足首が10月29日の夜にピクッと曲がったのだった。また、新たな記念日になった。