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医師会からのお知らせ

第21回ふれあい医療作文コンクール

佳作
「優しい医療」
深尾 みさ子
54歳
「胸骨圧迫ってね、童謡の、もしもしかめよの歌のリズムでやるのがいいんだよ。」
私は冷たく硬くなり始めた母に跨がり、長男に教わったその歌を頭の中で繰り返し歌った。手遅れであると感じつつも手を止めることはできず、ひたすら母に呼び掛け続けた。AEDを持って傍らに立った救急隊員は、母と私の様子を静かに観察していた。私はその沈黙に耐え切れず、自ら彼にこう尋ねた。
「ワタシ、モウ、オワリニシテイイデスヨネ。」
「そうですね。終わりにしていいですよね。」
穏やかに言葉が返ってきて、母の小さな体を無理矢理に圧迫し続けるという行為を止め、ベッドから降りた。母は安らかに旅立った。生前の望み通り、体を管で繋がれることなく住み慣れた家のベッドでひっそりと逝った。
母のためにより良い医療と望ましい最期の迎え方を模索し始めたのは、ほんの9ヶ月前のことだった。母は32年もの間、慢性関節リウマチを患った。その苦痛や不安、不自由さと一人対峙し、折り合いながら見事に生き抜いてきた。昨秋、椅子に座り損ねたことが原因で日常生活動作が一層困難になった。私は、家では安静が保てない、詳細な検査もして欲しいと医師に懇願した。結果、1週間の入院ののちほぼ従前の生活に戻ることができた。その時の経験が、母の医療について深く考えさせるきっかけを私に与えたのである。
母を最期まで自宅で過ごさせよう。私は、『在宅訪問診療』をキーワードにケアマネと相談し、母に合った医療の形を探した。幸い市内のK病院で外来を受け持つ医師が、母の住む町の診療所で在宅訪問診療をされていることを知った。母と私は迷わずK病院への転院を決めた。
初めてA医師にお会いしたのは、今年の2月初旬のことであった。開口一番にA医師はおっしゃった。
「ここはリハビリテーション病院なので高度な医療機器はありませんが、良いのですか。」
「母には高度な医療は考えておりません。痛い時や辛い時に、痛い、辛いと訴えられる医師を求めてやって参りました。近い将来訪問診療をお願いすることも視野に入れて、A先生を選ばせていただいたのです。」
こんなやり取りの後、A医師の優しい眼差しと丁寧な診察。A医師には内科全般を管理していただき、必要な時には整形外科の専門医に診察をお願いできることになった。母にとって、言わば総合診療医に出会えたということでもあった。
やっと優しい医療が受けられるようになったのも束の間、通院はわずか7回で終わりを迎えた。ずっとお世話になるつもりであったA医師に5回。腎臓専門のB医師に1回。最後に診ていただいたのは、心臓が専門のC医師であった。C医師は現状を分かり易く説明してくださって、母には心臓の自覚症状はなかったが、母娘で納得し安心して帰宅した。
 母は自宅で亡くなったので、警察の方は控え目に「検死」という言葉を出された。母が転院まで受けた何十年もの医療体験に思いを馳せ、詳しくお調べくださいとお願いした。Ai(死亡時画像病理診断と書物で読んだ)を受け、急性心不全であったことと推定死亡時刻が明らかになり、私は満足だった。
患者が寄り添ってくださる三人の医師に出会い、気配り上手な看護師さんと顔見知りになり、短時間だったが本当に良いご縁を結ばせていただいたと感謝している。
介護保険制度、重度心身障害者医療費助成、頼もしいケアマネとの出会い、病院との連携そして私達兄妹の母への想いがうまく機能したと私は分析している。苦渋に満ちた母の人生の中で取り分け辛かったはずのリウマチ。それから派生した疾患についても、転院先の三人の専門医から明解な説明を受けた後に亡くなったことで、納得して親送りができた。
大きな総合病院にかかることが必ずしも良い訳ではない。高齢者医療に関しても、本人が判断できるなら、幾つかの選択肢を用意した上で意思確認をし、当事者も支援者も満足できる逝き方、送り方をシュミレーションしどんな医療を受けるかを決定することが大切だと私は感じている。母の望ましい医療体験はわずか半年で終わったが、私に悔いはない。
その反面、もっと早く母の通院に付き添い母が杖に縋って一人で通い続けた病院の本質を見極めて転院させなかったことで、自分を責め続けてきた。私自身に健康問題がある故のことであっても、自分を責めずにはいられなかった。しかし、母を送って2ヶ月が経過し、娘として当面すべきことを終えた今、もう笑って生きよと母が言っているような気がして、再び、自分の人生を生きてもいいのではないかと思えるようになってきた。
「あの病院はいい病院だよ。」
「薬を漢方に代えてもらって楽になったよ。」
「先生も看護師さんも、うんと親切だったよ。」
 母の遺影は今日も私にこう語り掛けてくる。