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医師会からのお知らせ

第21回ふれあい医療作文コンクール

山日YBS賞
「家族を支えてくれた在宅医療に出会って」
神山 陽子
47歳
平成25年6月29日、父が四年間の闘病の末に亡くなりました。その間の父のこと、そして周りで支えてくださった医療について書いてみたいと思います。
人が病気にかかると、まずは病院に行き、詳しい検査を受け、病名が判明すると、治すための治療が始まります。その時の最善の治療法と薬を使い、また元の生活に戻れる日に向けて家族も共に戦います。今まで私が思っていた医療とはそのようなものでした。しかし、今回それとはまったく違う医療を体験しました。人生の終わりを迎える人を支える看取りの医療でした。それは私が始めて見る医療の姿でした。そして、それはとても静かで温かく、感動的なものでした。
父は平成21年11月、脳梗塞で倒れました。中学を卒業し、家業である理容の道に進み約60年、ひとつの道を貫いてきた父でした。母と結婚してからは二人で、椅子三台の小さな理容店を営んできました。いつもと変わらぬ普段どおりの朝、一人目のお客さんを終えたところで、父は倒れました。右脳の三分の二がダメージを受け、左半身に麻痺が残ると告げられました。最悪の状況を覚悟しつつも一命を取り止め、父は最初に運ばれた大学病院で約1ヶ月を過ごし、次の病院で3ヶ月間リハビリを受けて、倒れてから4ヶ月が過ぎた翌年3月に家に戻ってくることができました。最初の病院では、24時間たくさんの機器に管理され、以前なら救えないような重篤な病気も救われていく先端の医療に驚かされました。次の病院では、父の体調や気分に合わせて細かく用意されたリハビリと、そのリハビリをしてくださる先生方の忍耐強さにただただ感心しました。治すため、元気になって少しでも元の生活に戻れるようになるために、様々な技術や人の支えをいただきました。
念願だった自宅での療養生活は、仕事をしながらの母の介護を受け、週に二日のデイサービスに通うことから始まりました。途中、腸からの出血が止まらなくなったり、心不全を起こしたりと、思いがけないことで一、二週間の入院を何度かすることがありましたが、休まる暇なく、バタバタとしたまま3年が過ぎました。その頃には看護される父も、介護する母も二人ともが毎日の生活に疲れきっていました。娘の私は時々手伝いに行くだけで、 「共倒れになる前に、どこかの施設に入れたらいいのに。」と内心思っていました。しかし、父には一貫した強い思いがありました。それは「この家で死にたい」ということです。父は、日当たりがよく、自分が丹精こめて作った庭と店舗が見える部屋で寝ていました。しかし、日中はブラインドを下げその上にカーテンまで閉めて過ごしていました。良くなるどころか、日々衰え、思うように体が動かない父の現実。それほどに父の毎日は辛く苦しいものだったのです。病院や施設ではなく、家で最期を迎えたいという父の思い。その思いはとても良くわかっていて、できることなら叶えてあげたいと思うが、しかし休めない、眠れないという介護の現実。それぞれが大きなストレスを抱えながら、些細なことでぶつかり合っていたとき上野原市の在宅医師、K先生に出会いました。
K先生は上野原市立病院と連携し、在宅医療を行ってくださる先生です。それまでは、自宅で最期を迎えたくても、在宅で看取りを行ってくれる医療がなかったところに、市立病院だけではなく、訪問看護師さん、ケアマネージャーさんや介護ヘルパーさん、薬局、介護施設など様々な職種と連携し、情報を共有して患者さんを支えていく在宅医療システムを立ち上げ、実働されていました。先生と出会って、まず父が変わりました。先生の励ましをもらって、今まで気力のなかった父は頑張ろうという前向きな気持ちになりました。そして、大変なだけの日々を送っていた私たち家族にとっても、先生や訪問看護師さんたち、支えてくださるスタッフの皆さんの存在はとても心強く、一つの光を掴んだような気持ちになりました。定期的に家族を含めた担当者会議が開かれ、その時の父の状態に一番いい介護をみんなで相談し、提供してくださいました。在宅医療は、家で死を迎えることを最終の目的とする看取りの医療で、患者の痛みを和らげる緩和ケアのほかに、患者と患者の家族の心のケアや生活のケアまでしてくれます。実際にA先生や訪問看護師さんのほかに、ケアマネージャーさんやマッサージの先生、入浴を手伝ってくださるヘルパーさんが曜日ごとにやってきてくださり父の症状だけでなく、私達家族の不安や心配事、時には愚痴まで聞いて受け止めてくれました。その一人ひとりの仕事ぶりはとても誠実でプロフェッショナルで、心打たれるものでした。
忘れられない日があります。父が亡くなる2週間前のことです。もうその頃の父はだいぶ弱っていて、いつ呼吸が止まっても不思議ではない状態でした。先生が父に向かって話し始めました。「長谷部さんは覚悟のある人だからはっきり言いますが、もう最期の時が近いです。でも心配しないでください。僕が最期までしっかり看させていただきますから。長谷部さんに出会えて、長谷部さんの生き様を見せてもらって本当に感謝しています。ありがとうございました。」父は苦しそうな呼吸でただうなずいていました。私は涙をこらえながら二人の姿を見ていました。そしてその日から点滴を止めました。以前、先生に、「大変なお仕事ですね。」と聞いたことがあります。先生は「大変だけど、いろんな人の生き様を見せてもらって、とても勉強になります。」とおっしゃっていました。なんと誠実で謙虚な人なのだろうと思いました。医師と患者という関係ではあるが、命を前にして結局最期は人格と人格の触れ合いなのだと思いました。「いい仕事だな。」と羨ましくなりました。
父はそれから2週間生きました。亡くなる三日前の夜中、昏睡状態にあるはずの父が突然「起きたい。」と言い、5分ぐらいですがベッドに腰掛け、私達を喜ばせてくれました。先生は、「奇跡だ。」と言っていましたが、「在宅には奇跡がいっぱいあるんです。」とも言っていました。今まで在宅診療でたくさんの奇跡を見てきた先生の確信を持った笑顔でした。
私には二人の息子がいますが、父の闘病中、学校や部活動の休みの時はできる限り父に会いに上野原の家に連れてきていました。父が寝ているベッドの横のテーブルで勉強したり、ゲームをしたり、テレビを観て笑ったり、ご飯を食べたり、みんなで普通に過ごしました。そうすることが一番いいと思ったからです。何も言わなくても、父の姿を見ることが一番の教育だと思ったから。息子達も勉強しながらチラッと父の様子を気にしたり、交代で父の1分間の呼吸数を数えたりしていました。先生が息子達に聴診器を貸してくれて父の心臓の音を聴いたこともありました。私は父が病気になってから亡くなるまでのその過程の全てをさらけ出して私達に見せてくれた事に心から感謝しています。息子達にとっては、もちろんこれ以上ない貴重な時間になったと思います。
そして父の最期はとても静かでした。静かに、そっと、本当に一日一日木が枯れていくような感じで、その姿は美しいとすら思いました。これが在宅医療のゴール、父が願っていた終わり方なのだと思いました。亡くなった後の父の顔はやりきった、満足した顔をしていて、まるで菩薩様のような穏やかさでした。私は最初に「治すための医療だけでなく、家で死ぬことをゴールとする看取りの医療があることを知った」と書きました。もう一つがあります。患者というのはどうしても受身の立場であって、医師が進める治療方針を受け入れるしかないという雰囲気がありますが、どういう治療をしたいか、人生の終わりをどこでどのように迎えたいか、また亡くなった後にどうしたいかを自分で選択することができるのだということを、父のことを通して知りました。そして葬式の後、生前から献体を申し出ていた父は、山梨大学医学部へ最期の仕事に出かけました。
その後、夏休みの最終日の夜、長男から医学部進学を希望していることを告げられました。息子は確かに父から大事なことを学んだそうです。そしてK先生のような地域の患者さんや家族に寄り添う在宅医になりたいそうです。なんだか父からバトンを渡されたような気がします。そのバトンを落とさないように、しっかり息子に繋げないといけないです。バトンを受け取った息子が、在宅医として患者さんや家族の支えとなって走っている日を父が待っているような気がします。
最期にずっと私達家族を支えてくださった全ての医療スタッフに心から感謝申し上げます。上野原市の在宅医療がさらに充実して他の地域の模範となること、そしてさらに多くの家族の光となることを願っています。