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医師会からのお知らせ

第21回ふれあい医療作文コンクール

佳作
「ギランバレー症候群」
羽田 航基
勝山中学校3年
私が小学校1年生の時、夏休みが近づいたある日の給食の時間、母が突然教室に来て、担任の先生と深刻な顔で話をしていた。
当時、私の父は単身赴任で土日だけ家に帰ってくるという生活だった。その一週間くらい前に父は体調不良を訴え、ある個人病院で風邪と診断され薬を処方してもらっていた。しかしなかなか治らなかった。次の週末に帰ってきたとき、父の様子はだいぶおかしかった。足に力が入らないのか歩くことすらおぼつかない。手にも力が入らないらしく、ペットボトルのキャップさえ開けることができなかった。
「絶対おかしいよね。」
「ただの風邪じゃないんじゃないかな。病院代えてみようか。」と母。
後日、近くの総合病院へ行って診察を受けた。しかしその病院では判断できないとの理由で、別の病院を紹介してもらい改めて診察してもらうことになった。その時、子供ながらに嫌な予感がした。
その予感は的中した。
給食が終わった後担任の先生に呼ばれ、父が東京の病院に入院することになったことを聞かされた。
付き添っていった母の話では、紹介された病院へ行き、父は血液検査などを受け診断を待った。病名は「ギランバレー症候群」。聞いたこともない病名を告げられた。医師の話によれば、このまま放置すると、手足の筋力だけでなく、物を飲み込む為の筋力、そして最悪の場合は呼吸をする為の筋力さえ弱くなってしまう可能性があるということだった。
「死」という文字が、私たち家族の頭をよぎった。診断は下ったのだがこの病院では治療する設備がないので、治療の出来る東京の病院を紹介してもらうことになった。進行が早いという理由から、その日の午後には東京の病院に入院できるように連絡をとってもらった。治療方法は血液製剤の投与。しかし血液製剤の投与にはリスクがあると言われた。エイズという病名が思い浮かんだ。その為なのか、病院側から投与することの承諾書にサインをするように求められた。リスクがあるとはいえ他に治療方法はなく、投与しなければ悪化していく可能性があるので選択肢はない。サインをするしかなかった、と母は話してくれた。
入院した時期がちょうど夏休みだった為、私は何度か母に病院へ連れていってもらった。不安ながらも血液製剤を投与した後は、父が元気になっていくのが目に見えて分かった。何回目かに病院に行った時のことだった。父が私に手を差し出してきた。何も考えずにその手を握った。
「こんなに力が戻ったよ。」
ギュッと私の手を握り返した。その力は元気なころの父とまではいかないが、私の手が赤くなるほど強い力だった。私はうれしくて思わず涙がぼろぼろこぼれてきた。
それから10日位で退院となったが、退院してからも1ヶ月くらい父は会社を休み、リハビリをしていた。
ギランバレー症候群は指定難病だったが、治療方法が見つかっていたので回復することができた。そういう意味で私たちは「不幸中の幸い」だったと思う。この世の中には治療することすらできない難病が数多く存在する。
これらの難病の治療法が一日も早く、そして一つでも多く見つかってほしい。現在、父は元気に生活しているが、もしあのとき、あのまま病院も替えずにいたらどうなっていたのだろう。そう考えると診断を下せる病院や医師が増えることも大切だと思う。また、それ以上に、医師と医師が結びつき、病院と病院がネットワークで結ばれていることが必要だろう。地域全体で素早く正しい診断と治療ができるよう整備されれば、私達は地域が一つの大きな病院になったように、安心して生活できるのではないだろうか。この父の病気も。最初に行った近くの病院、紹介された別の病院、治療を受けた東京の病院と、三つの病院にお世話になった。その連携はとてもありがたかったし、どこでも医師や看護師のみなさんの親身になってくれる温かさは、今も父の口からときどき出るほどだ。
でも、ニュースでは「たらいまわし」という言葉で、助かるはずの命が失われる報道を耳にする。私達家族が受けた幸運は、どこにでもあるものではないのだと思う。
今はまだ守られる側の私だが、将来結婚し子どもが生まれれば、守る側にもなる。もし、家族が難病に襲われたら、自分にどんなことができるだろう。そして、その頃の医療はどうなっているのだろう。父が受けたような素早い連携がさらに進歩し、少ない転院で済むようになっているだろうか。医療関係者の温かさは失われてはいないだろうか。大切な人を守れる社会にしていきたい。